「発達障害」という言葉を、私はずっと少し違和感を持って使ってきました。
診断名をもらって、相談先や療育につながって、支援を受けられるようになった。その意味では、診断名はとても大切なものだと思っています。でも、「障害」という言葉そのものが、この子を正しく表しているかどうか——そこについては、今も正直に言えば、しっくりきていない部分があります。
この記事は、「発達特性は個性なのか障害なのか」という問いに対する、私なりの今の答えを書いたコラムです。正解があるわけではないし、これが全ての人に当てはまるとも思いません。ただ、同じように考えてきた方の、何かヒントになればと思って書きます。
私について
ADHD/ASDと診断された5歳の子どもを育てている父親です。専門医への相談、田中ビネー知能検査、週3回の民間療育への通所など、いろいろな経験をしてきました。このブログでは、専門家としてではなく、実際に迷いながら進んできた父親として書いています。
「障害」という言葉への違和感
私は、「障害」という言葉は社会的に定義されたものだと思っています。
脳の特定の部位が大きい、小さい、働き方が違う——そういった科学的な違いはあると思います。でもそれは、ひとつの特性であって、それ自体が「障害」なわけではないのではないか、と。
「障害」と呼ばれるのは、その特性が社会の中で生きていくうえで困難をもたらすとき——つまり、社会との間に生まれる「障害」だと、今の私は理解しています。子ども自身に問題があるのではなく、社会の基準との間にギャップがある、ということです。

「個性がない子」はいない
「発達障害は個性だ」という言葉を聞くことがあります。私はこの言葉に、概ね賛成です。
ただ、一点だけ思うことがあります。
仮に発達特性が「個性ではない」としたら、その子に個性はないのでしょうか。
そんなことはないと思います。どんな子にも個性はある。発達特性は、その個性のひとつのあり方に過ぎないと、私は感じています。「個性という分類の中で、社会的な基準の敷居を超えたものを障害と呼んでいる」——私の中では、今のところそういう整理がいちばんしっくりきます。
それでも「障害」という言葉が必要な場面がある
と同時に、「障害」という言葉を使うことで、社会的なサポートにつながれるという現実もあります。
診断名があることで、療育に通えた。専門家に相談できた。保育園でも配慮してもらえた。その意味で、「障害」という言葉は、この社会でわが子が必要な支援を受けるための、現実的な鍵だとも思っています。
言葉に違和感を持ちながらも、その言葉を使わざるを得ない——そういう複雑さが、正直なところです。
私にとって、この子はかけがえのない愛する子どもでしかない
理屈をこねてきましたが、最終的にはシンプルです。
個性だとか障害だとか、そういう言葉でこの子を分類することに、私はあまり意味を感じていません。私にとって、この子はかけがえのない愛する子どもでしかない。それだけです。
衝動性があっても、こだわりが強くても、感情の波が激しくても——それはこの子の一部です。直すべき欠陥ではなく、一緒に生きていくこの子のありようです。

「個性 vs 障害」より大切なこと
この問いに、唯一の正解はないと思います。「個性だ」と捉えることで楽になる人もいれば、「障害だと認めることで支援につながれた」という人もいる。どちらも間違いではない。
私が大切にしたいのは、言葉の定義よりも、目の前のこの子をどう見るかです。特性を「治すべきもの」として見るのか、「この子のありよう」として受け取るのか——その視点の違いが、日々の関わり方に一番影響すると感じています。
正直、まだ揺れる日もあります。将来のことを考えると不安になることもある。でも今日のこの子と向き合うことの方が、ずっと大切だと思いながらやっています。
まとめ
発達特性は個性なのか障害なのか——私の今の答えは、「個性という分類の中で、社会的な基準の敷居を超えたものを障害と呼んでいるだけ」です。
でも、そんな言葉の定義よりも、私にとってこの子はかけがえのない愛する子どもです。それだけは、ずっと変わりません。
同じように考えてきた方に、この記事が少しでも届けばうれしいです。


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